マッターホルン登頂記



パリからTGVでスイスへ(2004/07/25)

パリで開催された一週間に及ぶCOSPAR・国際学会が終了した(登山姿で口頭発表を無事終えた小生の頭の中は,すっかり登山で一杯だった).小生は,登山用具の入った20kgの大きなザックと,ノートPCなどの入った小さなザックを抱えて,早朝の北駅(ガール・ド・ノール)へ向かう.やばそうな黒人だらけでかなり怖かったが,乗る電車がよく分からなかったので,小生よりも弱そうな黒人に電車を確認してから乗車.空港から北駅,リヨン駅へ向かうこの地下鉄は,パリで最も危ない地下鉄路線の一つとして,早朝や深夜は,パリっ子も避けているそうだ.車中の小生は,眉間に皺を寄せて強面を装い,ガール・ド・リヨン駅に無事到着.TGVのホームもすぐに見つかり一安心.パリからローザンヌまで,快適な4時間の移動.ローザンヌで昼食を買い込んで,ローカル線に乗り込む.永遠と車窓に広がるレマン湖が,スイスに来たことを実感させてくれた.フィスプが近づくにつれて,山々も高く険しくなり,川も氷河の雪解けと土砂の色である独特の乳白色になってきた(草津の入浴剤は混入されていない).そして,いよいよフィスプから登山鉄道に乗り換えて,標高1600mの山岳の町ツェルマットに到着.車中では,これから十分に堪能できることは分かっていたのだが,とうとう我慢できずに窓を開けて山々の写真を取りまくる典型的日本人に変身してしまった.ツェルマットの駅を出て驚いたのは,観光客の多さである.小生の宿「ストックホルン」は,駅前の喧騒から800m程離れたマッターフィスパ川を渡った所にあった.部屋に入って窓を開けると,目の前にマッターホルンがドーンと鎮座している最高の眺めの部屋だった.3ヶ月も前に予約したので,最高の部屋を提供してくれたようだ.それでも値段は,シャワー,トイレ付き,朝食込みで55CFH(スイスフラン)である.一服した後,アルペンセンターへ早速足を運んだ.小生が予約した山岳ガイドパーティーを確認するためである.スイスへ来て,いきなり4千メートル級を昇るのは無謀だと思い,到着翌日は高地トレッキングをする予定だったのだが,ガイドパーティーの都合で,翌日にブライトホルン(4165m)に登ることになった.大丈夫かなぁと不安になりながらも,ホテルの部屋でアイゼン,ピッケル,ハーネスなどの山道具の手入れをしているうちにやる気になった.ツェルマットの日本語インフォメーションセンターにも顔を出して,登山届けを提出した.ここは,日本人からの余りにも多い問い合わせなどをボランティアで対応しくれている,日本人にとっては便利な場所だ.気さくで面倒見の良いスタッフが対応してくれるので気持ちが良い.ツェルマットのスーパーで行動食と翌朝の朝食を購入したら,23CFH(1CFH=90円)もした.宿泊ホテルへのご挨拶も兼ねて,ホテルの1階で夕食にステーキとビールを食すと40SFもした.おいおい,ツェルマットはこんなに物価が高いのかよーと思いきや,これはスイス全土でほぼ平均的な価格だそうである.スイスがEU に加盟しない理由が良く分かった.EUに加盟したら明らかに生活水準が落ちるからである.5月にEUに加盟したチェコがユーロの導入を拒んでいる生活水準の急激な向上理由とは全く反対の理由がスイスにはあるのである.とは言え,12日間もここに滞在する小生はこんな生活をしていたら破算してしまうので倹約しなくてはならない.翌朝早く出発する旨を宿の女主人に伝えたところ,部屋で取る朝食を用意してくれた.小生の出発は翌朝7時30分である.


TGV

ツェルマットへようこそ
毎日通るヤギの群れ(近くで見ると目つきが怖い)


ブライトホルン(Breithorn,4165m)登頂(2004/07/26)

6時に目が覚めると,空はすっかり霧に覆われて,マッターホルンも青空一つさえ見えない.ところが,TVでライブ中継を見たところ,TrockenerSteg(2939m)は晴れてたので,雲の上は晴天だと分かり安心した.7時40分にMatterhorun Expressのリフト乗り場で,ガイドとなるビリーといっしょのパーティーのイタリアから来た40代くらいの夫妻と挨拶をして,早速リフトとゴンドラを乗り継いで一気に標高3800mのクライン・マッターホルンへ上がった.眩しい太陽と,真っ青な青空,そして純白の雪原が広がっている.まさに息を呑む光景が広がっていた.目の前には,雪帽子を被ったブライトホルンと,アタックしている幾つかのパーティーが小さく見える.風も無く,気温は氷点下をちょっと下回る程度で絶好の登攀日和だ.我々はアンザイレンし(お互いをザイルで結び),午前8時30分前に登山開始.小生は2nd,ラストはイタリア人の登攀経験がありそうな男性になった.クレバスを避けるため,ガイドに従って一列で1時間ほど雪原を歩いてから,ブライトホルンのとり付き付近に到着.ここでアイゼンを装着し,ピッケルを握った.新品のアイゼンを誰よりも早く装着した小生の鼓動は,酸素の薄さよりも緊張でドキドキしていた.イタリア人夫婦は,ベテランかと思いきや,アイゼン装着にガイドの手を借りていた.いよいよ登攀開始.ガイドのビリーの後をただひたすら続いていく.急斜面のアイスバーンに入り,小生の右足くるぶし上の外側筋肉が痛みだした.「ヤバイ,チェコの村のサッカーの練習で痛めた場所だ」.もちろん止まってくれなどとは言えない.右足をかばう様にピッケルを突いて歩行していた.その時,一瞬小生の右足がぐら付きバランスを崩し掛けた.危うく,アイスバーンを滑り落ちるところだった.多分小生が落ちれば,パーティーごと数百メートルは滑落するだろう.ガイドのビリーに,「ジーザス・クライスト!ピッケルを山側に持ち替えろ」と怒鳴られた.小生は,ピッケルバンドを右手にしていたので,ピッケルを山側へ持ち替えずにそのまま谷川を突いていたのだ.ここから先は,もう景色を楽しむどころじゃなく,ただひたすら,ビリーの足元を追いかけた.もう既に標高4千メートルは超えているだろう.ようやく稜線に出たが,痩せ尾根の両側は,谷になっている.ここでバランスを失ったら確実に死ぬ.これまでの登山の中で,初めて死への恐怖を感じた.息は殆ど切れず,高山病も全く問題なかった.ただ,歩行(右足筋肉)に問題があった.この雪道が更に続いていたら,多分またバランス失ったかもしれない.マッターホルンへはまだまだだと,自分を戒めた.下りは,問題の右足筋肉に負担が大きくは掛からなかったので,全く問題なく安定した歩行で下ることができた.兎に角,右足の問題をマッターホルンまでに完全に解決しなくてはならないと思った.気さくで陽気なガイドのビリーとは色々な話をした.小生がマッターホルンを目指していること,その為に必要な登山の数々をここで調整してからアタックすることも伝えた.「日本の友人よ.マッターホルンで再会しよう!」と言って握手を交わして,彼はケーブルカーへ消えていった.小生は一人で,クライン・マッターホルンの展望台で,アルプスの山々を1時間近く眺めてから帰路についた.早速ツェルマットの薬局で,筋肉痛用の塗り薬を購入した.中一日休みを入れようか迷ったが,アルペンセンターで,翌日にリッフェルホルンのロッククライミングを予約.マッターホルンのテストを受けてみることにした.ホテルでは,念入りに足をマッサージし,翌日に備えた.


ブライトホルン

ブライトホルン山頂


リッフェルホルン(Riffelhorn,2928m);ロック・クライミング(2004/07/27)

朝起きると,昨日よりも濃い霧に包まれていた.午前7時40分,ゴルナーグラート鉄道駅で,ガイドのビィエト氏とパーティーを組むフランス人のピレネー氏(ピレネー山脈と同じ名前)と挨拶を交わし,8時発の登山電車に乗り込んだ.ピレネー氏は,元バイオの研究者で,現在は引退して登山を楽しんでいるそうである.モンブランや冬のツェルマットの山々にも登ったことがあるそうなので,かなりのベテランである.乗客の殆どは日本人観光客だった.小生らは,英語とフランス語(小生は殆ど分からない)で雑多な話をして,車中を過ごした.スイス人はみな,ドイツ語,フランス語,イタリア語,そして英語のどれも流暢なので,様々な言語が飛び交う.途中,羊の群れが線路を塞いで暫し止まったが,約40分で終点(ゴルナーグラート; Gornergrat)の1つ手前のローテンボーデン(Rotenboden)に着いた.ゴルナーグラートからの眺望を見学する日本人観光客は,誰も下車しない.特に早朝のローテンボーデン駅は,モンテローザを目指す登山家やロッククライマーが主な利用者なのである.雲海の上に出ることを期待していた我々は,依然雲の中に居た.駅から10分ほど歩いたところに,霧の中から突如岩山リッフェルホルン(Riffelhorn, 2927m)が現れた.山を南側へトラバースすると,優しい面持の北壁とは異なり,荒々しい南壁に到着した.ここでハーネスを装着し,ヘルメットを被った.小生が2nd,経験豊富なピレネー氏が小生から4mほどザイルを隔てたラストに付いた.我々が登ったコースは,Z'schreg Band(アルペンセンターのマップによるとFコース)であった.ガイドのビィエトがトップをリードで各支点にヌンチャク(カラビナ)をクリップしながら登り,小生が彼を下で確保する形となった.OKの掛け声で,さあ,1stピッチの開始だ.クリップされたヌンチャク(カラビナ)を支点(ハーケン)から外しながら攀じ登って行く.最初からちょっと難しそうな壁だったが,槍穂で慣らした小生にとってはルート・ファインディングも快調で(もちろんトップの一挙手一投足を逃さず観察しているが),難なく登る.その時,ラストのピレネー氏が「待ってくれ」と叫んで,初っ端から落ちた.幸い小生は,安定した足場に乗っており,ザイルもピンと張っていたので踏ん張れた.彼のスローペースに合わせる様に,かつ,いつ落ちるか分からないのでザイルを弛ませ無い様に1stピッチを終えると,彼のザイル付近が血まみれになっており,彼が岩角で小指を切ったことが分かった.傷は浅い切り傷程度だったので,ガイドがその場で止血応急処置(テーピング)をして登攀を進めることになった.素手の小生はここで,念のため手袋をはめた.とんだ人がラストについたなぁと不安になった.小生にとって岩登りは軽快に進んだが,スローピッチのピレネー氏に合わせるように気を使いながら登った.3rdピッチから天候が回復して,足元に悠悠と流れる息を呑む様な広大なゴルナー氷河を観ながら,快適なクライミングを楽しんだ.最後の7ピッチ目のグレード5の壁を登って暫く歩くと,十字架のケルンのある山頂に着いた.天候は一転して快晴となり,筆舌し難い夢のような眺望が広がった.ここで大休止した後,直径5cm程の極太のフィックスロープのある場所へ連れて行かれた.ガイドのビィエトが,ここを降りなさいとい言うので,てっきり下りのルートかと思って,今度は,ピレネー氏が先頭となって垂直の壁を15mほど降りた.ガイドが降りて来るのを待っていたところ,ピレネー氏が,「ここをまた登るんだよ」と言った.フランス語で話していた彼らの会話内容が理解できなかったので,なるほど,これがマッターホルンのテストの一環なんだと理解した.小生は力任せに,フィックスロープを辿って登り始めた.6mほど登ったところで,ピレネー氏が下で,「なかなか登れないー」と叫んでいる.小生はかなり不安定な体勢で岩にへばり付いていたので,「ここで下に引っ張られたら踏ん張れない」と不安に思い,「落ちるな!Don'tfall」とピレネー氏へ向かってまじで叫んだ.しかし次の瞬間,ピレネー氏が,「だめだー, Non-!」と叫んで落ちていった.小生も今回は踏ん張ることができずに落ちた.その時,岩に体をぶつけ(その時は必死なのであまり気にならなかった),レイバンの高級サングラスが谷底へ落ちて行った.小生はハーネスに完全にぶら下がって宙ぶらりん状態になった.姿の見えないガイドのビィエトが,上から状況をフランス語で聞いている.ピレネー氏は,「もう登れない」というような情けない弱音を吐いている.一方,小生もフィックス・ロープに頼りきって力任せで登っていたので,腕と握力が全く無くなっていた.小生は,「Wait a minute」と叫んで,乳酸が失せるのを待った.取り付きの一番の難関壁を突破していた小生は,振り出しに戻された挙句に,腕の筋肉がパンパンに張ってしまった情けない状況だった.暫しの後,我々2人は,やっとこさ上へ上がることができた.ピレネー氏が落ちなければ,もっと容易く登れたのだが,腕を使い過ぎた小生の欠点も明らかになったし,あまり体験することの無い”フォール”を大した怪我も無く現場で体験できたので,大変良い勉強になった.もちろん,マッターホルンではこんな失敗は許されない.次に,別の壁に連れて行かれた.そこから15m弱ほど,ピレネー氏から先に懸垂下降を行った.ピレネー氏は,「おい,これを降りるのかね」と,ちょっとびっくりしていたが,小生は懸垂下降を心得ていた.小生の懸垂下降は(経験は殆ど無いのだが),消防士の様に(かつ落石を起こさない様に壁は蹴らない)完璧だったので,ピレネー氏に,本当に初心者かと聞かれた.登攀の理論に関しては,書籍を読み漁っているが,経験は理論よりも重要である.更に別の20m程の壁に連れて行かれ,今度は小生から先に行うことになった.「懸垂下降で下ってから,この岩肌をそのまま直登してきなさい」とガイドのビィエトに言われた.下を覗くと,「こんな壁登れんのかよぉー」と思い,ビィエトの綴り”Beat(=打ちのめす)”通り,ガイドが鬼コーチの様に思えた.しかし,懸垂で颯爽と降りた小生は,今度はサルの様に,かつ亀の様に確実な三点支持で攀じ登った.懸垂で降りたのと殆ど変わらぬ速さで登り,かつ,高度3000m付近にも関わらず,殆ど息も乱れていない小生に,プロの鬼コーチも驚愕し,賛辞の言葉を頂いた.一方,ピレネー氏は直登せずに,少々巻いて楽なルートを登ってきたので注意されていた.次は,平らな急斜面の岩肌を手を使わずに,ブーツの摩擦だけで上り下りする練習も2つの壁で行われた.いずれも小生にとっては,難なくこなせた.そして,登降の早い小生が先頭になって山を下った.ピレネー氏に足を引っ張られたとはいえ,フォールはするは,登りで梃子摺ったので,マッターホルンへのGoサインは無理かと思っていたが,ガイドのビェト氏は,「You are a very good climber. Your climbing is very fast in the 3000 m altitude.」とべた褒めされた.ピレネー氏からも褒められた.マッターホルン登攀では,スピードと体力が技術よりも重要なのであると聞いた,とは言え,小生にとっては,まだまだ経験が足りないので,マッターホルンに登る前に,少なくとも後1つ,4000m級の山に登ることを約束して,ピレネー氏からGoサインを意味するドイツ語文章とサインを記してもらった.ピレネー氏は,このままマッターホルンへ登るつもりだったようだが,別の山に登った後にマッターホルンへ行く旨を記されていたと思う.彼は66歳,小生の2倍の人生を送っていることを言い訳にしていたが,マッターホルンに最も必要な体力が心配である.逆さマッターホルンで有名なリッフェルゼーの湖の脇で彼らと「Good luck!」と握手をして別れ,小生は下りの交通費31SFを節約する意味もあり,湖畔で昼食を食べてから徒歩でツェルマットへ向かった.せっかくの素晴らしい天気なので,リッフェルベルグから更にフリーまで長距離をトラバースして,ブラッテン,ゴルナーシュエルフトを経由するルートで戻った.ゴルナーシュエルフトの渓谷は素晴らしかったが,通過後に4SF徴収された.途中,日本人ツアーなども見かけたが(この時期のツェルマットに一番多いのは,日本人観光客である),旅先で日本人に声を掛けられたくない小生は,颯爽と彼らの横を抜けていった.ホテルへ戻って服を脱いでみると,足の脛と膝に複数のアザと擦り傷,わきの下から背中に掛けては,なんとザイルの跡がアザになって内出血していた.フォールした時に付いた傷と思われる.体の動作機能には全く問題無いことを確認し,筋肉をしっかりマッサージしてツェルマットの町へ買出しへ出た.マッターホルンの日没時刻を計算して,21 時前に頃合を見計らってマッターフィスパ川に掛かる橋へ行き,真っ赤に染まったマッターホルンに見入った.この不可能と思える頂へ一歩近づけた気がした.


ビィエト鬼コーチとピレネー氏

ゴルナー氷河を眼下に快適なロッククライミング

モンテローザ山群と氷河

マッターホルン(リッフェルホルン山頂手前より)

マッターホルンとリッフェルホルン南壁

逆さマッターホルン(東壁)
右のリッジが今回登るコース

フーリ経由でツェルマットへ向かう


マッターホルン遭難から学ぶ(2004/07/28)

今日は休息日.朝起きるとやはり,腕の内側の筋肉と胸筋が筋肉痛となっていた.足の筋肉痛もまだ消えない.筋肉を解すために,ザックを背負って1時間ほど散策した後に,アルペンセンターへ向かった.ロック・クライミングでは,問題のある右足アキレス腱脇の筋肉に負担を掛けずにこなせたが,小生の一番の懸案は,アイゼン歩行である.そこで明日は,マッターホルン準備登山の一つに薦められているポルックス(Pollux, 4092m)のガイドツアー参加することにした.ポルックスとは,双子座の弟の星.1.1等のオレンジ色(スペクトルK 型)の星である.兄のカストルに因んだカストル(Castor)山は,4228mと弟よりちょっと高いが,雪だけの単調な登攀なので,アイスと岩のミックスであるポルックスを選んだ.ちなみに双子座のカストルは,1.9等星と弟星よりも暗く,かつカストルA(1.9等)とカストルB(2.8等)からなる連星(共にスペクトルA型星)である.更にカストルA,カストルB,それぞれが2つの星からなる連星であり,またこの2つの連星をまわるカストルCも連星である.すなわちカストルは多重連星系(6重連星系)を形成しているので,実は双子の星ではなく,6+1の「7つ子星」なのである.さて,幸いもう一人ポルックスへの登山希望者がいたので,ガイドを含め最低3人のパーティーが組めることになった.マッターホルンの状況を聞くと,ここ数日の好天のお陰でソルベイ小屋付近の雪もかなり融け,昨日は何と11人もの人がガイド登山をしたそうだ.木,金と天気が一旦崩れるようなので,取り合えず小生は,8月1日(日)のスイス建国記念日のアタックを予約した(前夜は,標高3200mのヘルンリ・.ヒュッテに一泊して,午前4時過ぎから往復8時間掛けてアタックする).8月1日は,現在のところ,小生とピレネー氏を含めて6組のガイド登山が予定されている.天気の崩れ方次第では,夏といえどもマッターホルンの東壁は北壁の様にあっという間に雪と氷に覆われる.週末にかけての天気が心配だ.今日は一日快晴.部屋から双眼鏡で舐めるようにマッターホルンを観察した.また,読みかけだったウィンパー(Edward Whymper)の「アルプス登攀記」(岩波書店)を,マッターホルンを肉眼で間近に眺めながら一気に読み終えた.1865年7月14日,それまで登攀不可能とされたマッターホルンが,ウィンパーら7人のパーティーによって初めて登頂された.しかし,下山開始早々,2ndにいた19歳の経験の浅いイギリス人,ハドウが足を滑らせ,そのまま4人(1st;クロー[ガイド], 2nd;ハドウ[初心者],3rd; ハドソン[登山家],4th;フランシス・ダグラス卿[登山家])が滑った.5th のガイドの老ペーテル,6thのウィンパー,ラストのガイド・子ペーテルが咄嗟に踏ん張ったものの,ザイルが切れて,4人は1100m下のマッターホルン氷河へ落ちた.ベテランの老ペーテル(タウクワルダー)が使った切れたザイルの箇所だけが,古いものであったのだ.ハドソンとハドウの遺骸は,ツェルマット教会の北側に,ミシェル・クローの遺骸は教会南側の墓地に埋葬されている(この3人は,強固なマニラ麻のザイルで最後まで結ばれた状態で発見されている).ダグラス卿の遺骸は見つかっていないので,途中の岩棚に引っかかったのだろう.ウィンパーとガイドの老ペーテルは,スイス法廷で裁かれ無罪となったが,登頂成功の栄誉ではなく,周囲からは非難され続けられた.老ペーテル・タウクワルダーは,ザイルを切ったという不当な非難に苦しめられ,ツェルマットを離れて数年間アメリカで過ごしたが,再び故郷へ戻り,1888年7月11日にシュワルツ池の畔で急死した.ウィンパーは鋭い観察眼と正確で信頼のおける素晴らしい登山家・登山研究科であったことが,彼の著書を読むとよく分かる.このマッターホルンの栄光と悲劇は,登山の何たるかを凝縮している.小生も,彼らの墓地を実際に見て,そして,改めて登山について考えさせられた.人生の絶頂とも言うべき登山の成功と,奈落の底への破滅は,何万歩の登山の歩みの中の,たった一歩の犯されたミスに因ってもたらされるのである.登山とは,勇気と忍耐だけでなく,一歩一歩を確実に踏みしめる慎重さが大切だ.たった一回の不注意が,一生の幸福を一瞬にして破滅へ陥れる.本来登山とは,目的を定め,頑強な意志をもって忍耐と努力を続け,多くの困難な道を切り開くものである.人間のあらゆる機能を呼び覚まし,物事に注意深くさせるのが,登山の特徴でもある.特に自分自身以外に頼るものも,助けてくれるものもない単独行の場合は,登山者はどんな小さな事にも注意し,目に入った情報を可能な限り記憶に留めておかなければならない.そして,山から日常生活の中へ戻って来たとき,人生を戦い困難を乗り越える遥かに強靭な力を手に入れることができる.登山での苦闘と,山頂を極めた満たされた心を回想することによって,日常の困難に出くわしたときに大いに勇気づけられるのである.優秀なガイドとのマンツーマン登攀により,登頂が簡単になったとは言え,マッターホルンへの小生の気持ちは高まる一方である....ウィンパ-の「切れたザイル」は,ツェルマットのアルペン・ミュージアムに展示されているので,マッターホルン・アタックの直前に,気を引き締めるつもりで見学に行こう.


ウィンパーらの登攀ルートと墜落現場

切れたザイル


ポルックス(Pollux,4092m)登頂(2004/07/29)

今日は快晴.今日は5-6時間の長い行程になるので,朝一番のリフトに乗車するために,6時50分にMatterhorun Expressに集合.駅前でピレネー氏と会った.彼はブライトホルンのトラバースルートのガイド登山に参加するそうである.小生は,日曜日にマッターホルンに挑戦する予定だと伝えた.我々のガイドは,体格が良く如何にも登山家といった風貌のブライアン,そして,カリフォルニアから来た女性,マリアンとスイス人のマックスと4人のパーティーとなった.ブライアンは,スコットランド出身で,英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語を操る.マックスはドイツ語しか話せず,マリアンは英語なので,登山中の重要な会話は英語とドイツ語で繰り返されることになった.マリアンはチャーミングな見た目とは裏腹に世界中の高山を登っている.マックスと小生は,マッターホルンを目的としていた.午前8時5分に終着駅のクライン・マッターホルンでザイルを結び合ってスタート.ブライアンがトップ,2ndがマックス,小生が3rdでラストはマリアンになった.ブライトホルンの裾野を大きくトラバースして,標高差で140m程下りながら,カストル・ポルックスへ向かう.途中,何度かまたげるような小さなクレバスを越えたが,底の見えない巨大なクレバスに掛かったスノーブリッヂを越える箇所では緊張した.こういった危険場所では,落ちた場合の衝撃加重をなるべく小さくするために,お互いのザイルをいつも以上にピンと張る.雪崩危険地帯なので迅速に通過したが,頭上の青白い巨大なスノーウォールの美しさにも圧倒された.1時間余りでポルックスのアイスミックスの岩場に到着.ここでピッケルやポールをザックの脇に固定してから登攀を開始.マックスとマリアンの激しい息づかいとは打って変わって,小生は殆ど息も切れずに4千m峰を軽快に登った.更に上部では,ヌンチャク(スリングとカラビナ)を使って,ハーケンや鎖に自分の体をビレイしながら,慎重に岩壁を登る.約1時間で,マリア像が立つポルックスの尾根に出た.ここで休憩して,アイゼンを装着し,尾根道を慎重に30分程登って午前10時45分に山頂に立ち,皆で握手と抱擁.ヨーロッパ最高峰のモンブランやイタリアのビージーヴイなど,遥か遠くまで雲一つ無い深青色の空に見事に見渡すことができた.マリアンが,「マッターホルンはどこ?」と冗談の様な質問をしていたが,ツェルマットから毎日見ているマッターホルン(北東稜)とは別角度の真東から見ていること,距離が離れ小さくなったこと,そして目線の標高差が500mと余り変わらなくなったことなどから,小生も一瞬探してしまった.約15分間,山頂での一時を楽しみ,今度は往路とは逆順でマリアンがトップになって同じ道を下山開始.マリア像前で小生がマッターホルン登頂の無事を祈って合唱していたら,ブライアンが「実は俺も仏教徒なんだ」と言って笑っていた.マリアンは岩登り下りが苦手,特に下りは始終腰が引けていたので,小生が常に上からザイルにテンションを掛けて補助した.一方小生は,ルートファインディングの下手だったマリアンとは違う岩岩を,モシカの様に軽快に下った(つもり).小生の後ろのマックスも時々尻餅を付いていたので,後ろにも気を配った.かなりペースが落ち,登りの2倍位い時間が掛かってしまった.帰りの雪道は,早朝とは違い,照りつける日差しのためにシャーベット状になっており,非常に歩きづらかった.今度は再び,ガイドのブライアンが先頭になった.小生は,ウィンパーの言葉を考えながら,確実に一歩一歩を踏みしめた.マリアンがザイルを弛ませるので,歩き難かったし,マリアン自身も自分のザイルに躓いて,ブライアンに注意されていた.それでも段々,マリアンが近づいてきてザイルが弛むので,小生がザイルの長さを調整しながら進まなければならなかった.帰りの雪道のトラバースはとても長かった.途中で2回,絶景の斜面に寝転がって休憩した.ブライアンが色々な話をしてくれるので,退屈な雪上トラバースも楽しく過ごせた.出発から6時間後の14時過ぎに,ようやくクライン・マッターホルン駅に到着.ブライアンは,小生にマッターホルン登山の許可を示すサインをしてくれた.但し,小生が仮予約していた日曜日の登山は,天候が崩れて,マッターホルンは雪になるから,明後日の土曜に登った方が良いとのアドバイスを受けた.右足の筋肉も問題ないし,4千m近くを6時間歩いても疲労も高山病の兆候も全く無かったので,休息を入れずにマッターホルンへ登ることにした.下山後,皆でビールで乾杯(マックスが全員におごってくれた).この上も無くビールが美味かったので,小生のいつもの第一声もいつも以上に気持ちがこもっていた.「プハアァァァァー」.マリアンがゲラゲラ笑っていた.マックスと小生は,明日,マッターホルン・ヒュッテで再会することを約束して別れた.ブライアンは,小生の大きな一眼デジタル・カメラ(NIKON D-70)を見て,「それはマッターホルンへは持っていけないよ」と言った.「マッターホルン登山は,今日の岩登りの倍のスピードで登るし,ザックから大きなカメラを出して撮影する時間は,ガイドに許可されない.山頂で2枚撮影したら,すぐに下山だろう.ツェルマットで日本製の小型デジカメをレンタルしているから,そいつをポケットに入れて登れば,僅かな隙に,登山中でも撮影可能だよ」とアドバイスしてくれた.小生もその通りだと思い,ニコンのデジカメはアタック小屋へ置いていくことに決めた.ブライアンには,マッターホルン登頂後に連絡をくれと言われた.彼もマッターホルンのガイドの一人で小生といっしょに登る可能性があると思っていたが,膝に問題があり,現在は,マッターホルン登山を医者に止められているそうだ.マッターホルンの長丁場は,プロのガイドにとってもかなりの負担になるのだ.皆と別れた後,小生はマリアンにデートに誘われて,彼女と2時間ほどツェルマットの彼女のお薦めの飲み屋で楽しい時を過ごし,マッターホルンへの緊張をときほぐした.明日はいよいよマッターホルンへの玄関に立つ.


ポルックスのアイスミックスを登る

ポルックス山頂

ポルックス山頂

ビール最高!ブライアンと乾杯


マッターホルンへの道(2004/07/30)

いつもはスーパーで買ったパンやチーズ,ヨーグルトで夕食を済ますのだが,昨夜はマッターホルン前夜祭ということで,ツェルマット産の子牛のステーキを食した.マッターホルン登頂へ向けて,約12時間の睡眠を取り,宿の主人にマッターホルンへ向かうことを告げ,握手を交わして14時30分にツェルマットをあとにした.アルペンセンターの前で,再びピレネー氏と遭遇.明日マッターホルンへ登る日程にしたことを伝えると.「お前が日曜に登ると言っていたので,私もそうしたのだよ.」と言われたが,小生の体調は万全だし,彼と登るとまた何か起きそうな予感がしたので,一日早めて良かったと思った.18時30分にマッターホルン・ヒュッテ=ヘルンリ・ヒュッテ(Matterhorun hutte, Hornlihutte)でガイドらとのミーティングがあるので,それまでにアタック小屋へ移動すれば良いのだ.ツェルマット(Zermatt,1603m)からフーリー(Furi,1864m)経由でシュバルツゼー(Schwarzsee,2552m)までロープウェイで約20分.マッターホルンの巨大な姿が目の前に迫ってきた.シュバルツゼーからヘルンリ・ヒュッテ(3279m)まで約700mの標高差のある125分のコースを歩く(スイスのコースタイムの1.5倍が日本でのコースタイムに相当するので180分相当のコース).翌日の登山を考え,決して疲れを残さないように,いつもとは全く違うスローな歩きを心がける.マッターホルンの北壁が迫り,その裾野には,マッターホルン氷河(Matterhorun gletscher)と奥まった場所にツムット氷河(Zmuttgletscher)の景観が素晴らしい.ゴルナー氷河(Golner gletscher)を含め,マッターホルンは,これらの3 つ氷河のせめぎ合う場所に聳え立つ独立峰なのだ.午後の遅い時間にヘルンリ・ヒュッテに登るのは,翌朝にマッターホルンへアタックする数少ない登山者のみなので,ヒュッテで過ごして帰路を急ぐハイカー達には,ヘルメットなどの登攀用具をぶら下げて登る小生に,「Matterhorun?」とか「To the top?」と声を掛けてくる.「Yes, exactly」,「Good luck!」の言葉をあとにすれ違う.道中100枚以上もの写真を撮影してヒュッテに到着.のんびり来たのだが,コースタイムよりも30分早い90分程で到着してしまった.ここまでは1時間に500mのペースで登った訳なのだが,マッターホルン登山では,ここより更に高い標高を1時間に約400mのペースで登る体力が必要とされると言う.しかし,もはや小生の体は,少なくとも4000mまでは走ってでも登れる状態になっているようだ.登頂への不安が自信へと変わる.宿は,日本の山小屋と同じように,大部屋で他の登山者らと寝食を共にする.疲れを知らない小生は,早速,マッターホルンの最初のルートを明るいうちに確認して置く為に,荷物を置いて下見へ出かけた.間近から見るマッターホルンは,日本の槍ヶ岳の形に本当に似ていると思った.しかしその頂は,槍ヶ岳の100倍も高く見えた.小さな雪渓を渡ると,マッターホルンの岩場へのスタート地点となるレリーフのはめ込まれた岩壁があった.初っ端から,ロープで直登するその壁と,天上まで永遠と続くかと思われる気の遠くなるような岩山を仰ぐと,期待よりもやはり不安な気持ちで鼓動が高鳴った.しばらく耳を澄ましていると,マッターホルン氷河からの落石の轟きも聞こえた.下見を終え,明日登るマッターホルンのルートを双眼鏡で何度も何度も詳細に観測した後に,部屋へ戻り横になった.既に何名かの登山者は,疲れを取るために仮眠を取っている.登山者の泊まる部屋は,マッターホルンへの緊張で包まれていた.そんな,無言で暗く静まり返った部屋で,突然,イタリア系と思っていた男性から,「日本人ですか?」と声を掛けられた.何と良く見ると,野口健似の日本人だった.見た目はとても若いが40歳のKさんは,妻子を日本へ残して,2度目のマッターホルンへの挑戦に来たと言う.前回は悪天候に阻まれたが,今週は晴天が1週間も続き大変ラッキーなのだそうだ.晴れ男の小生は,到着後毎日快晴だったので,これがスイスの天気とばかり思っていたが,小生が来る前日までは,異常なほどの悪天続きだったのだ.そして,ツェルマットに来て,初めて日本の登山者と知り合った小生は,彼との出会いが,マッターホルン登山の感動を分かち合える,素晴らしい出会いとなったのである.18時30分にラウンジでワインとジュースが振舞われて,ガイドらと明日登る登山者の紹介が行われた.ガイドと登山者はマンツーマンとなる.明日アタックするのは,小生とKさんを含めて5組.一昨日いっしょにポルックスを登ったスイス人のマックス,ロスから来たスキンヘッドの米国人のティン,ロンドンからきた中年男性だ.小生のガイドは,ジョジェフ・モレリー(Joseph Morelli),通称ジョー.小生よりもずっと小柄だが,エネルギーに満ち溢れた38歳のガイドだ.ジョーの性格は非常に明るく,かつその言動はしっかりしており,信頼のおけるガイドであった.20分ほど,自分のこと,山のことなどをガイドと歓談した.ジョーは,この夏は10回程マッターホルンのガイドを務める予定だそうで,何と昨日から3日連続でマッターホルンへ登るのだそうだ.そして,来週からはフランス・シャモニのモンブランでガイドをするという,筋金入りのプロ・ガイドである.小生は自分の経験について,ザイルを使った登攀経験は,殆ど基本的な経験しかないこと,しかし体力と岩登りには自信があることを伝えた.ジョーにコースタイムについて質問すると,標高4003mのソルベイ小屋に2時間30分以内に到着しなければ,そこで登頂を諦めて下山しなくてはならいと言われた.ソルベイ小屋から山頂(4478m)までは,ソルベイ小屋までの時間とほぼ同じだけ時間がかかり,下りは登りと同じだけ時間がかかるので,ソルベイ小屋まで2.5時間かかると,合計で10時間の登山となり天候が崩れた場合には,非常に危険な状態に晒されるからである.岩山のマッターホルンは,太陽熱で暖められた南稜や東稜から午後は必ずと言っていいほど雲が発生し,落雷によって,複数の登山者が命を失っているのだ(毎週一人は死者が出ており,数日前にも米国人が滑落死している).一般的な登山者の平均タイムは往復で8時間だそうであるが,先日ジョーがガイドした女性登山者は,3時間40分(往復7時間20分)で山頂に立ったことを話してくれた.彼女は2回目のマッターホルン登頂だったそうだが,”その位のタイムを目標に頑張ります”ということにした.ちなみに,ツェルマットのガイド登山でのマッターホルン登頂の最短記録(非公式)は3時間(往復6時間)だそうである.しかしこれは,記録を狙ったマラソン登山みたいなものだそうで,小生は楽しみながら登頂したい旨をジョーに伝えた.ちなみに,ヘルンリヒュッテからのマッターホルンの登降最短世界記録は,1953年8月15日にガイドと二人で登った往復3時間という信じられない記録が残されている.夕食は,食前にコッテリの野菜スープ,メインは,マカロニの牛肉のブラウンソース(グラーシュ),そしてデザートは甘いチョコレートムースにゼリーが入っていた.全て美味しくて,スープもメインもデザートもチェコ料理にそっくりであったので,チェコを離れて既に2週間近く経っている小生はとっても嬉しかった.食後にガイドのジョーによって,小生のアタック装備の点検が行われた.ハーネス,アイゼン(クランポン),登山靴,ヘルメット,ヘッドランプ,サングラス,ザック,食料(コンデンスミルクとチョコレートとドライ・フルーツ),水(ポカリスエット1リットル)と服装だ.服装に関して小生は,最大公約数を考慮して,冬山装備も用意しておいたのだが,結局上着は半袖Tシャツにフリース1枚(14年間着ている古着),下着は,パンツと夏用のトレジャー・ズボンだけで良かった.また,薄手の手袋と悪天時の対応のため,ウィンドブレーカだけ持参することになった.ステテコは蒸れて濡れて重くなるからと着用を拒否されたが,小生は持参した日本のステテコは蒸れない優れものだし,(ジャパニーズ・スピリットなので)どうしても履きたいと主張したら笑顔でOKしてくれた.また,巨大な一眼レフ・デジカメは宿に預け,代わりにツェルマットで購入した25枚取りのAPSポケットカメラを胸にしまった(結果的にこの小型カメラにしたお陰で,トップ・ガイドが登るちょっとした合間にも登攀を中断すること無く撮影することができ,一見して一眼レフに劣らない素晴らしい写真が出来上がった).登山に持って行かない物は全て籠に入れて,宿へ置いていく.また,食後に自分の水筒を指定の場所へ置いておくと,暖かいティーを入れた状態で翌朝受け取れる.小生は,既にポカリスエット1リットルを持参していたので,水筒は預けなかった.ジョーと固く握手を交わして(これまで握手したガイドの中で一番握力があった),21時に床に就いた.しかし,神経が高ぶっており,結局寝たのは23時半過ぎで,午前2時過ぎ頃には目が覚めてしまった.隣のKさんも2時半頃に起きてしまったようだ.小生は床の中で,念入りな筋肉マッサージと柔軟体操とヨガの呼吸を行い,2時間後の登山開始に向けて,心身を集中させた.そして,3時過ぎに一人で小屋の外へ出た.夏の星座の白鳥が,マッターホルンの脇に煌々と照る満月と聳え立つマッターホルンに圧倒されて,いつもより翼を小さく縮めて頭上を舞っていた.白み始めた東の空にはヴィーナス(金星)が輝き,冬の星座や昴が昇り始めていた.まだ眠りから覚めないツェルマットのオレンジ色のほのかなナトリウム街灯は,遥か遠くに揺らめいている.さあ,いよいよマッターホルンへの登山が開始する.


マッターホルン入り口のロープ

マッターホルン氷河

天まで聳えるマッターホルン

ヘルンリヒュッテとマッターホルン


マッターホルン(Matterhorun,4478m)登頂(2004/07/31)


東稜(赤線)が今回のルート

午前3時30分,ヘルンリ・ヒュッテ(Hornlihutte, 3260m)がにわかに騒がしくなり登山客らが起き始めた.小生も部屋へ戻り,登山の準備を迅速に済ませた.午前4時前に,小屋の明かりが一斉に灯り,午前4時に食堂でパン,チーズ,紅茶・コーヒーの朝食が始まった.小生はパンを4切れと紅茶を2杯を飲み,ガイドのジョーの所へと急いだ.2組の日本人パーティーらは,我々よりも15分ほど前に出て行った.小生は,ジョーの30m(直径10mm前後)ザイルに8の字結びでアンザイレンして,5番手位に早足で小屋を出発.小生の3組前にはKさんのパーティーが居た.トップで飛び出したかった小生は,ちょっと出鼻を挫かれた感じだったが,小生の歩行は徐々にペースが上がる大器晩成型登山なので,ほど良い位置だったかもしれない.ロープを握ってマッターホルン入り口の岩を軽快に昇り登攀開始.午前4時25分であった.西に沈みかけた月明かりは東壁には届かない.ヘッドライトの明かりを頼りに岩山を物凄いスピードで攀じ登って行く.小生の後ろには,米国人ティンを引っ張る巨漢ガイドが迫っていた.彼は岩肌をショートカットして強引に我々の前に出ようと試みる.ジョーと小生はそれを拒み続けたが,4回目に抜かれた.というより,その巨漢ガイドが抜かせろとドイツ語で言って抜いて行った.小生はコンチキショーと思ったが,ジョーも同じ気持ちだったと思う.我々はしばらくその巨漢パーティーに続いて登り,2組のパーティーを強引に抜いた.先に出て行った日本人パーティーらだ.彼らは「ショウガナイヨ.こんな状態が暫く続くよ」と呟いていた.慣れたガイドから見れば,彼らのスローなスピードは,邪魔な存在でしかないのだ.日本人はゆっくり確実に登るというのが専らの見方なので,小生は大和男児の底力を発揮するつもりだった.マッターホルンはスピードが命.まさに最初の1時間は標高差400mのハイピッチの登りで,抜きつ抜かれつの運動会登山だった.このスピードで山頂まで本当に行けるのだろうかと考えを廻らせる余裕も無く,小生の頭の中にはソルベイ小屋へのタイムリミット(2.5時間)のことしか無かった.そして,小生の2組先を行くKさんの頑張っている姿が,エンジン始動が遅い小生にとっては大きな励みにもなっていた.昨年(2003年)の大落石で崩壊してルートが変わった2つ目のピークとガラ場を越えると,本格的な登りが始まった.我々はコンティニュアスで軽快に登る.朝方の冷たいマッターホルンの岩肌を素手でしっかりと掴みながら,小生はジョーの足元を一生懸命に追った.マッターホルンの岩肌を抱きながら,小生はこの上も無い喜びを感じていた.さほど熱いとは感じなかったが,汗の雫がヘルメットからポタポタと垂れてくる.朝一番の心地良いウォーミングアップであったが,これは相当の汗をかくと思った.ツェルマットのガイドは,客をどんどん引っ張るほどの速さで登ると聞いていたが,小生は決してザイルで引っ張られることのないように,ジョーのステップに合わせてペースを落とさずについて行った.眼下には,出発時はいっしょだった10数個ほどのヘッドランプが数珠繋ぎに登っているのが分かる.白み始めた東の空には金星が美しい.我々は先頭の5パーティーの中に位置しており,それ以降を完全に突き放して猛進した.難易度の高い岩やフィックス・ロープのある場所などでは,いわゆるスタカットで登る.ジョーが小生を待たせて先に登りOKの指示が出たあとに小生が登っていくのである.小生は胸ポケットからAPSカメラを取り出して,ジョーの華麗な登攀姿を何度も撮影した.美しい朝日が眩しく小生を照らす.いつの間にか足元も明るくなり,ジョーが小生のヘッドランプを消すように指示.ソルベイ小屋が遥か頭上に浮かんでいる.よし見えてきた!小生の前を進んでいたKさんらのパーティーがペースダウンし,親切にも先へ行ってくれと促してくれたので,我々はペースを落とさずに横を抜けた.この時点で先頭から2パーティー目となった.英語教師のKさんが「See you later.」と英語で声を掛けてくれたのだが,小生の脳は登山に夢中で声の主に気が付くのが遅く,返事をする余裕が無い.”ソルベイ小屋で休憩を取るから再会するのだろう”と,タイムラグを置いて脳が思考を廻らした.そして6時過ぎにソルベイ小屋に到着.ここまでなんと1時間半余りで登ってきてしまったのだ.やっと休めると思いきや,我々はそのまま小屋を通過.「おい,ジョー休まないのか?」と聞くと,「休まない」と言った.しかし,小屋のから70m位い登った安全な岩の上で休憩となった.ジョーは,「お前は大したクライマーだ.5分間休憩するから,しっかり水分を取れ」と言った.ここまで上がってくるまでに,ジョーからは3回だけ「大丈夫か?」と声を掛けられただけで,お互い無言の,しかし足並みの揃ったクライミングを続けてきた.小生はスピードを全く落とさず,ザイルでテンションを掛けられることもなく,ただひたすらガイドの足元を追った.そして,何度もジョーの尻やザックにヘルメットを擦った.ジョーにしてみれば,後ろから突き上げる小生のメットに煽られているように感じたかもしれない.しかし,こんなに辛く長い登りは始めてだった.例えるなら,穂高の紀美子平からザックを背負って前穂高山頂までの登りの10倍の長さを,コースタイムの半分以下で登る様な辛さだと思った.そんな辛い登山だったが,小生の体に異常は無く,耐久レースを完走するだけのエネルギーが漲っていた.相当の水分を欲していたので,400ccほどを一気に飲んだ.食欲は特に無いが,ツェルマットで購入したドライ・フルーツを口へ放り込んだ.標高は既に4千メートルを越えている.ソルベイ小屋の上部からは,アイスが現れ始めた.雪ならまだ安心だが,岩にへばり付いた氷は恐ろしい.標高4100m付近で小生らの前を行くマックスのパーティーがアイゼンを装着.ジョーからも,ここでアイゼン装着の指示があり,小生らは迅速かつ確実にアイゼンを装着した.ここで,我々のパーティーがアイゼン装着に梃子摺るマックスを抜いてトップに立った.ここ1週間の晴天続きで,雪田がアイス・ミックスと化しており,アイゼン歩行は注意が必要だった.ここでスリップしたら,ガイドといえどもピッケルを持っていないので止めることはできないかもしれない.小生は,ウィンパーの言葉を心の中に唱えながら着実な一歩を心掛けた.アイゼンの歯をアイスに一回で確実に突き刺して進む.恐ろしさと疲労とバランスを保つために四つん這いで進むと,「頭を上げて歩け!その方が楽だぞ」とジョーが言う.途中,リッフェルホルンで練習したのと同じようなフィックスロープと鎖の梯子の岩場があった.小生はゴボウで登ろうとして,あろうことか再びリッフェルホルンと同じように腕がパンパンに張ってしまい,二回やり直して登った.足場をちゃんと確認すれば,難なく登れたのだ.唯一,ここだけが反省すべき箇所となった.小生はスピードを落とさなかった.しかし,流石に息が相当荒くなっていた.もうこれ以上の辛さは無いだろうと思ったが,それでも決して休もうとは思わなかった.肩の雪田を登りリッジに出た.下から見ると,オーバーハングして見えるような特徴のある岩場を越えた.そこから下は,千メートル以上切れ落ちている北壁だ.リッジを暫く登ると,急傾斜のリッジを登る箇所へ出た.ここで100メートルほどのフィックス・ロープを掴んで強引にゴボウ登りして頂上雪田に出る.山頂はすぐそこのはずだが,なかなか近づかない.もう頭の中は真っ白であった.こん身の力を振り絞って雪田を登った.山頂手前のマリア像が見えてきた.そして,視界が360度開けた.その瞬間,感動と涙が込み上げてきた.山頂に立つやいなや,小生は大声で「バンザーイ」を何度か叫んだ.ガイドと次に登ってきたマックスらはみな驚いていたが,小生にとっては自然と出た感動表現だった(Kさんによると,小生の雄叫びは,叫び声として十分下まで届いていたそうである).そして,ジョーと強く抱き合って握手した.午前7時31分だった.驚くべきことに,マッターホルンのガイド登頂記録とほぼ同じ3時間余りで登頂したのである.ジョーは小生の肩に手を掛けて,360度の主な山々の名前を一つ一つ指差しながら示してくれた.独立峰のマッターホルンの周囲には遮る高山もなく,自分がヨーロッパアルプスの中心にいるような絶景が広がっていた.毎日毎日,何時間も下界から山頂を仰いでいたツェルマットの町も,今はトップから見下ろしている.ヨーロッパ最高峰のモンブランとは,同じ目線で向かい合った.マックスのガイドに写真を撮ってもらった.山頂で8枚写真を取るとフィルムが空になった.少し下った先には,イタリア側の山頂の目印である十字架が見えた.しかし,それは明らかに目線の下に見えた.本当にあっという間の15分だった.もっともっとマッターホルンの山頂に居たかった.我々は,7時45分に下山を開始.小生は,ウィンパーのアルプス登攀記を頭の中で反芻した.登頂成功後の彼らは,山頂下の簡単な雪田でスリップして千メートル以上滑落したのだ.小生はジョーに言った,「Go home! 家に帰ろう!」.小生は登りとは全く別種の慎重さで,アイスの上を先に歩いた.登りとは異なり,ジョーは後ろからザイルにしっかりとテンション(張力)を掛けてくれるので安心感はあるのだが,ここでこけたら死ぬと肝に銘じ,腰を落としてアイゼン全体に体重を十分に乗せ,堅実な歩行を行った.下山を開始して15分ほどしてから,Kさんとすれ違った.「下(ヘルンリ・ヒュッテ)で待ってます!」と今度は小生が声を掛けた.フィックス・ロープ帯では下からどんどん登山者が登ってくるのだが,そんなことはお構い無しに,彼らの上から懸垂下降で降りて行かされた.ジョーが上でロープを繰り出し,小生が懸垂で数十メートル降下する.小生が次の終了点まで到達すると,そこに自分のザイルをインクノットで巻いてセルフビレイした後,ジョーが降りてくる.小生がせっかくカラビナを持ってきたので,ジョーは8の字でカラビナをザイルに付けてくれた.懸垂でのロアーダウンは,ビレイ器具は使わない設置されたアンカー支点(懸垂下降点)を使ったイタリアンフリクションヒッチ(半マスト)方式で行っていた.小生は,毎回自分のカラビナを終了点に付けて自分を確保した.壮絶な懸垂下降の連続だった.時には下から登ってくる知らないパーティーと喧嘩腰にもなった.ジョーが「ゴーゴー」と急かすので,小生も強引に登山者の上から降りているときに,間違って登りのパーティーのザイルをアイゼンで踏んでしまった時には,(当たり前だが)相手のトップが物凄い剣幕でドイツ語で怒鳴ってきた.小生はすまないと反省しつつも,何を言われているのか分からないので,「Sorry,シュルディグング」と言って構わずどんどん下降した.その代わり上でジョーが弁解してくれていたみたいだったが,ジョーには怒られなかった.ただひたすら懸垂下降で降りた.アンカー支点が無い場所でも,ジョーは岩角にザイルを掛けて小生を懸垂下降で下ろした.10数回も懸垂した.ザイルに身を任せ,空中を下降するのは気持ちよかった.「ショウガナイヨ...」と言って我々に抜かれた日本人パーティーとは随分下の中腹ほどの所で再会した.「流石にガイド登山は早いですね~」と声を掛けられた.「そんなにちんたら登っていたら日が暮れちゃいますよ」と心の中で返事した.ソルベイ小屋の上の壁を懸垂で降りて小屋で小休止した.ソルベイからの下りは,とてもとても長かった.こんなに登ってきたのかと何度も疑った.しかし,心配していた小生の足の付け根の筋肉も,膝も問題なく機能していた.小生は,「Keep concentration」と言葉に出しながら降りていった.ジョーは,「岩の下り方がとてもナイスだ.どこで学んだんだ」と聞いてきた.「Japanese Matterhorunさ」と言った.ジョーには,何度も何度も「Good climber」と褒められた.それでも小生は気を抜くことなく,家路を急いだ.沢山の誤った踏み跡があり,それらの踏み跡を辿って降りてしまって,何度もジョーに修正をされた.登りと下りのルートは若干異なっていたが,確かに彼の言う通りのルートは,最も効率良く降りられたルートだったと思う.ジョーは登りも下りも,一回もルートを間違わなかったので,体力もさることながら,ルートファインディングの面でも一流のガイドと言えよう.マッターホルンの怖さは,ルートを少しでも間違えると,途端に難しい壁の登降になり,ルートを探すために時間と体力を消耗して遭難することである.霧にでも巻かれたりしたら,こういった誤った踏み跡を辿ってしまい更に遭難の危険は大きくなるだろうし,時間を浪費し悪天になり落雷で死亡するケースも多いようである.昨年の崩落現場には,まだ巨大な岩岩が不安定な状態で横たわっていた.岩に手を触れると,何トンもありそうな岩が簡単に動いた.ガイドのジョーは,再度の崩落を気に掛けていた.10時44分,我々はヘルンリヒュッテに到着.往復で6時間20分という脅威的な速さであった.ヒュッテでジョーにビールをおごり,二人で乾杯してお互いを労った.ジョーは,マッターホルン登頂証書に日付とサインを入れ,小生もマッターホルンから降りたばかりの火照った手で自分の名前を書き込んだ.マッターホルン登頂記念バッヂも貰った.これらの品は,マッターホルン登頂者(ツェルマット・ガイド登山)のみが手にする記念品だ.約40分後,Kさんも無事に笑顔でヒュッテに飛び込んで来た.二人で固く握手した.Kさんも7時間という素晴らしいタイムで登頂を果たされて大満足であった.”日本人は登山も遅いし,英語のコミュニケーションもできない”という悪評がガイド達の見方なのだが,今回の我々二人は,英会話コミュニケーションも抜群で,スピーディーな登山を見せつけることができた.日本男児の大和魂を見せ付けることができ本当に大満足.小生はヒュッテの名物のグラーシュを食べ,マッターホルンのTシャツも購入した.我々は午後1時半までヘルンリヒュッテでまったりしてから帰路についた.ヒュッテへ登ってきた日本人ツアーのおばちゃん軍団には「英雄」呼ばわりされ,照れくさかったが,やはり嬉しかった.ヘルメットなどの装備を携えて下山するので,マッターホルンを登ってきたことはすぐに分かるのだろう.帰路には米国人親子にも声を掛けられ,マッターホルンの状況などを色々と聞かれた.K さんとの帰路はとても楽しかった.マッターホルンを何度も何度も振り返り,記念写真を何枚も撮りながら下山した.その晩は,Kさんお薦めのイタリア料理店で特大のピザを食べ,ビールを飲んだ.Kさんはキャンプ場に寝泊りしているので,翌日そこに顔を出す約束をして別れた.その晩は,感動を胸に明け方まで熟睡したが,午前4時過ぎに目が覚めた.窓から双眼鏡でマッターホルンを覗くと,ヘルンリヒュッテに明かりが灯るのが見えた.そして,次々とヘッドライトが登っていく.小生は1時間ほど彼らの明かりを双眼鏡で観察した.マッターホルンの南稜から登るライトも見えた.今日もジョーは山頂を目指しているのかと思うと,ツェルマットのガイドのタフさに敬服だ.とにかく,小生の目標は達成され,今はその充足感で幸せである.


難易度の高い場所は,スタカットで攀じ登る
ジョーはヘルメットを被っていない

フィックスロープを攀じ登る

ソルベイ小屋付近で迎えた御来光

マッターホルン山頂からのヴァイスホルン方向

マッターホルン山頂,ガイドのジョーと
左後ろに見えるのは,モンブラン

マッターホルン下山後

(後日談)

8月2日にツェルマットでスイスアーミーナイフを物色していた小生は,リッフェルホルンのロック・クライミング講習にいっしょに参加したフランス人ピレネー氏と偶然再会した.彼が8月1日にマッターホルンに挑戦していたことは小生も知っており,結果よりも無事か否かが心配だったので,五体満足な彼と再会できて良かった.実は彼は登頂に失敗したそうだ.制限時間内にソルベイ小屋まで行ったが,体力的にこれ以上の登山は無理と判断されて引き返したそうである.そして,なんと彼のガイドは,彼の前日に小生のガイドであったジョーだったのである.ジョーは小生のことを「グッド,クライマーだった」と大変褒めていたそうで,小生の快挙はピレネー氏も知っていた.ピレネー氏は,「自分は66歳だから...お前と同じ年頃だったら絶対に登れたはずなんだよ...ソルベイ小屋から先は楽な道なんだってね...」と,リッフェルホルンの墜落と同じような言い訳を繰り返していた.小生は,彼は引き返して良かったのだと思った.そして,その判断を下したジョーは,やはり信頼のおける素晴らしいガイドだ.日本語インフォメーションセンターのスタッフに,マッターホルンで撮影した写真を見せに挨拶に伺うと,「ガイドのジョーは有名クライマーで,良いガイドに当たって良かったね」と言われた.確かにマッターホルン登頂は,彼の存在無くしては成しえなかったことだし,小生の体力の限界に付き合ってくれたことで,最高の満足感を与えてくれたのはジョー(Joseph Morelli )なのである.今日,マッターホルンの登頂は,十分な体力と岩の登り降りの基礎があれば可能である(もちろん,天候や山の状況などの全ての条件が揃わなければならない).しかし,それでもマッターホルンに登った登山者に対して,ツェルマットの人々はみな,偉業を成し遂げた人への賛辞と驚愕の態度で接してくる.マッターホルン登頂は,今日でも限られた人だけが掴むことができる頂なのだと思う.

腕時計に記録されたログを集計したものを下の表に示す.登りは 408 m/時,下りは 432 m/時,トータルで 421 m/時 の登降速度で登山したことが分かる.マッターホルンの一般的なガイド登山のタイムは,登り4時間,下り4時間なので 305 m/時 程度の登降速度であるので,小生は若干(相当?)速いことが分かる.登りの渋滞待や休憩などが無ければ,小生の今の体力ならば往復5時間程度なら可能なタイムであろう.もちろん,ルートを間違えないという条件(優秀なガイド)が必要である.

(備考)

アタック装備(小生の場合)

(1)~(15)は,必要最低装備(2,3,4,7は,ツェルマットでレンタルも可能)
(16)~は,各自判断

(1) ザック(小生は35リットルだったが30リットルあれば十分)
(2) アイゼン(小生は10本歯・縦走用・アンチスノープレート付き)
(3) ハーネス(小生はカラビナも用意したが必要ない)
(4) ヘルメット
(5) ヘッドランプ(新品電池を入れること)
(6) サングラス
(7) 登山靴(アイゼンとマッチするもの)
(8) 手袋(薄革手袋と保温用手袋を持参した;薄革手袋はズボンのポケットに入れた)
(9) 食料(ツェルマットで購入);コンデンスミルク,チョコレート,ドライフルーツ
(10) 水:ポカリスエットの粉を入れたものを1リットル(休憩中にしか飲む余裕がない)
(11) 上着;半袖Tシャツ+フリース(14年もの)
(12) 下着;パンツ+ステテコ+トレジャーズボン
(13) 靴下;足袋靴下+厚手靴下
(14) ウィンドブレーカー(上着のみ)
(15) 帽子(アルペンセンターの装備リストに入っていたが,必要ない)
(16) バンダナ(主に汗拭きと鼻をかむ為;ズボンのポケットに入れた)
(17) 小型カメラ(レンズが曇らないようにビニールで包んで上着の胸ポケットに入れた)
(18) 腕時計(高度が自動記録されるもの;剥き出しにしたので傷だらけになった)
(19) 医薬品(バンソーコ,テイッュ,濡れナプキン,テーピング)
(20) 靴紐の予備1つ
(21) 財布・クレジットカード・身分証明書などの貴重品(一眼レフカメラはヒュッテに預かってもらった)
(22) 日焼けクリームとリップは,出発前にしっかり塗って持参しない

ガイド登山で必要(重要)なこと

(1) 高地順応(1週間程度が好ましい)と登攀の基礎
(2) ベストな体調
(3) 体力,気力(根性)
(4) 英語かドイツ語でのコミュニケーション(フランス語,イタリア語でも可)
(5) ガイド料金;1120CHF(10万円ほど,年々値上がりしている模様)

天気予報

ツェルマットのアルペンセンターの1階と2階の間に,インターネット情報をプリントアウトしたものが貼ってある.TVの他にアルペンセンターや駅などでもチェックしていた.

☆ マッターホルン登山前に登った山の数; 3つ(4千m級2つ,3千m級1つ)

☆ ツェルマット到着からマッターホルン登山に臨むまでの日数; 到着から7日目に登頂


Automatical Climbing Measurements by means of my watch(CASIO PROTREK)

Time
(hh:mm)
Relative
altitude
(m)
Absolute altitude(Actions)
(m)
Altitude
velocity
(m/hr)
04:22 3290 3260, (Sstart climbing) 488
04:30 3355 360
04:45 3445 380
05:00 3540 440
05:15 3650 420
05:30 3755 400
05:45 3855 400
06:00 3955 4100, above Solvayhutte(rest about 5 min.) 360
06:15 4015 320
06:30 4095 320
06:45 4175 360
07:00 4265 (set crampons, about 5 min.) 360
07:15 4325 400
07:30 4425 600
07:31 4435 4478, (at the summit) -
07:45 4435 4478, (start descending) 420
08:00 4330 260
08:15 4265 300
08:30 4190 320
08:45 4110 (pack away crampons, about 5 min.) 420
09:00 4040 4003, neare Solvayhutte(rest about 5 min.) 420
09:15 3970 300
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スイス建国記念日(2004/08/01)

Kさんと約束した正午に,駅の反対側にあるキャンプ場へ行った.世界各国からきたバックパッカー達のカラフルなテントが並ぶ.みな気ままにテントの外で読書したり,日向ぼっこをしている.Kさんの紹介で,フランス・シャモニから歩いてきたという真っ黒に日焼けしたOさん,Tさんと挨拶を交わした.O さんらは,テント広場の真ん中に,一番大きなテーブルを構え,その風貌(元人事担当)などから,このキャンプ場の村長的存在になっていた.新たにテントを張る外国人は,向こうから挨拶に来るそうだ.元シェフのTさんは,テキパキと昼食の準備をしてくれた.マッターホルンを背景に燦燦と照る太陽の下,我々は昼間からビールを飲みながら2時間余り盛り上がった.夕方にツェルマットのスーパーの前で待ち合わせをする約束をして,一旦宿へ帰ってシャワーを浴びた.今日は,スイスの建国記念日.夜は盛大な祭りが催されるので,我々もそれまでに食事を(安く)済ませてから繰り出す段取りだ.夕方5時過ぎに,マッターホルン登頂祝いの乾杯をした.前菜はサラダ,メインはシェフTさんの火捌きでステーキが焼かれた.ニンニクとガーリックと醤油の味付けも最高.ビールが美味い!食後のヨーグルトを食べる頃には,すっかり酔って気持ちよくなってしまった.周囲の外国人達は,我々の美味そうな食卓と賑やかな様子を羨ましそうにじっと見ていた.小生は,サングラスをしていた方が山男らしくて良いとの意見を言われたので(外すといきなり優しい顔になってしまう),なるべくサングラスをしていることにした.実は昔から同じことを時々言われるので,サングラスはいつも持ち歩いている.20時過ぎから,ツェルマットの目抜き通りに人々が沢山集まってきた.ツェルマットにおいても,肌の焼け具合,風貌などが他の観光客とは一線を隔している我々に興味を持った日本人が声を掛けてきた.小生もマッターホルンを登頂したので,心なしか町を歩く歩みにも貫禄が出てきた.21時にパレードが始まった.民族衣装の子供達やスイスの巨大なホルンを担いだ男達が進む.パレードの最後尾から観光客らが,ぞろぞろ着いていき,広場に到着した.市長の挨拶が(英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語,ロシア語,日本語,中国語)で行われ,様々な楽器によるコンサートや,各国語スピーチなどが行われた.催しが終わり,小生は,K,O,Tさんらと握手をして旅の無事を祈って別れた.空には無数の花火が上がった.日本で開催される花火大会規模の花火が,この小さなツェルマットで見られるとは思っていなかったので,美しい花火を町の色々な場所から存分に堪能した.昨年の花火大会は,フェーン現象の異常乾燥のため,中止されたそうで,今年はその分,これまでになく盛大に行われたようである.


スイスホルンの演奏

アルペンセンターと花火

ウィンパーが滞在したモンテローザ・ホテルと花火


宿移動(2004/08/02)

小生がツェルマットへ来てからというもの,全て快晴の日であったので,当初計画していた登山を1週間以内で全てこなしてしまった.しかし,小生の帰りの飛行機は8月6日なので,あと4日間この町で過ごす.これまで1週間,快適に過ごさせて頂いたストックホルンの女将に挨拶してから駅前のバーンホッフという,日本人登山家の定宿ともなっている,完全自炊型の安宿へ移動.バーンホッフの受付の老女は,日本語の挨拶も上手で,小生がチェコの天文台からきた事を知ると,興味があるらしく,フロントを通る度に色々と天文学レクチャーをする仲になった.今日はツェルマットの町で土産物を物色したりして時間を過ごした.Tさんお薦めのファンタジーの店員Mさんの所にも顔を出して,マッターホルンのワッペンを購入した.笑顔の素敵な可愛らしい人だった(元スチュアーデスとのこと).マッターホルンの写真の焼き増しができたので,アルペンセンターへ行って,ガイドのジョーへ渡してもらうように頼んだ.山頂でのショットだけでなく,彼の岩を登る勇姿の数々である.夕飯に地下の炊事場でスパゲッティーを作っていたら,Tさんという,相当に年期の入った山岳会とごいっしょさせて頂いた.明日からマッターホルンへアタックする3人のパーティーで,先週はモンブランに登ってきたそうだ.彼らはコースタイムは遅いが,確実に上がるために,ソルベイ小屋でビバークすることも考えているそうだ.ソルベイ小屋の利用は,マッターホルン登山者と遭難者に限られているのだが,どうやら縄張り意識が強く,地元やフランス山岳会に占拠されることもしばしばとのこと.気の弱い日本人は,小屋の外でビバークすることもあるそうだ.ソルベイ小屋で休息できるようにと,フランス山岳会に入会し(シャモニで入会できる),会員証を持参されていた.小生もこういう昔風のベテラン登山家といつか山登りをしてみたい.日本へ帰ったらどこかの山岳会に入ってみるのもいいかもなぁ.チェコにも有名な登山隊もいるそうで(プラハの何処かの駅にはフリークライミングの壁などもある),チェコの登山用品店に顔を出して今度情報を探ってみるつもりだ.そのためには,チェコ語もマスターしなくてはならない.


メッテルホルン(Mettelhorn, 3406m)&プラットホルン(Platthorn,3345m)登頂(2004/08/03)

明日から天気が崩れる予報なので,天気のうちにマッターホルンの整理運動を兼ねて,長距離登山に出かけることにした.日本語インフォメーションセンターの薦めで,メッテルホルン(Mettelhorn)へ向かった.「長距離だけど,マッタホルンに登った君だったら大丈夫」と言われた.ツェルマット(Zermatt, 1603m)を7時30分に出発.初っ端から町の裏山の急坂を登る.8時にAlterhaupt(1961m)通過.8時30分にTrift(2348m)に到着.ここまでは,コースタイムの半分(600 m/時)で来た.ちょっと飛ばし過ぎだ.ここからは,マッターホルンを背後に,氷河を見ながらメッテルホルンを目指す.途中でイギリスから来た2人のパーティーに追いつき,20分ほど歓談しながら登った.その後,小生は彼らから離脱して,自分のペースで先を行く.10時30分には,プラットホルン(Platthorn, 3345m)の取っ付きに到着.道が二つに分かれ,メッテルホルンへは,氷河を横切る様なので,地図を広げて確認してみたが,よく分からない.何組か登っているパーティーがいるので,取り合えず小生の好きな岩山なのでプラットホルンへ登ってみることにした.半分ほど登った所で,下りのパーティーのトップが,「どこの山へ行くのか?」と聞いてきたので,「メッテルホルンだ」というと,「こちらからはルートが無いよ.我々も間違えたんだ」との返答.兎に角,半分も登ったので,小生は最後まで登って満足した.メッテルホルン側は90度にスッパリと切れた崖になっていたので,元来た道を引き返した.アイゼン無しで十分に横断できる踏み跡があったので,ここでストックだけを取り出して雪渓を暫く歩いた.標高3千m級の山とはいえ,北緯46度以北に位置するヨーロッパアルプスは氷河が発達しており,雪線も低く,その景観は日本の山々とは大きく異なる.取り付きからほぼ直登のジグザグのガラ場を登り,メッテルホルン山頂に到着.11時15分だった.途中40分ほどロスしたが,5時間のコースを4時間弱で登った.イギリス隊は既におり,小生にパンをくれた(実は行動食をキッチンに置き忘れて,チョコレートだけしか持ってきていなかったのでとても助かった).帰路では,岩肌を豪快に走るアイベックス(ステインボック; Steinbock)のつがい(落石を沢山発生させていたので,その音で存在に気がついた),可愛らしいマーモット(Marmotte)のつがいや,高山植物などを楽しみながら下山できた.14時37分にツェルマットに到着.結構な長距離登山だったが,マッターホルンの整理登山というより,準備登山にこそ丁度良いルートだと感じた.日本人登山客もいない(トリフから下るツェルマットに程近い山道で日本人1人とすれ違っただけ),とても静かな穴場的な山である.宿に戻り一服すると,マッタホルンには雲が垂れ込め,雷鳴が轟き始めた.小生がツェルマットに来て初めて天気が崩れた.夕方からは雨が降り始めた.マッターホルンは雪に違いない.Tさんらは大丈夫だろうか.今日も自炊でスパゲッティーとサラダと野菜スープを作った.台湾から学生集団がやってきて,キッチンの半分を占領していた.威勢の良い日本のおじさんらに頼まれ,小生のマッターホルン話を軽くしながら飯を食べた.


プラットホルンからメッテルホルンを望む
一度降りて雪渓を渡って再度登らなければならない

メッテルホルン山頂からツェルマットを見下ろす
ツェルマットからは近く見えるが実際に登ると相当遠い

メッテルホルン山頂とマッターホルン北壁の絶景
ここは登山客も少なく意外な穴場である


遭難事故(2004/08/04)

朝起きると,マッターホルンはすっかり雪化粧していた.Tさん達を心配しながら,マッターホルンを何度も見上げた.実はここ(駅の北側)からだと,マッターホルンは東壁の途中からしか見えないし,ヘルンリヒュッテもツェルマットの山に隠されてしまう.先週まで泊まっていた宿は,町の南の更に川を渡った反対側にあったので,マッターホルンの北東壁を全て見ることができた.それでもツェルマットの宿泊施設の3割の部屋しかマッターホルンを見ることができないので,小生は大変贅沢な部屋にずっと泊まっていることになる.今日は溜まった洗濯物をしたり,絵葉書を書いたりしてまったりして過ごした.午後に初めて山岳博物館を訪れた(入場料;8CFH).マッターホルンのアタック前に見学するつもりだったが,登頂後に見学することによって,自分の登ったコースとかつての登山家達の歴史あるアタックコースなどを比較することができたし,何より登頂の苦労を少しは理解できる立場になっているので,展示物に一層深い理解を示すことができた.また,1993年12月2日から13日にスペースシャトル”エンデヴァー”で宇宙を飛行したマッターホルンの岩のかけらも飾られていたのが面白かった.ホテルに戻るとフロントのカトリーヌが沈んだ顔で,「悪い知らせがあるが,私からは言えないので,T氏らに伝えて欲しい」と頼まれた.フランス・シャモニ,モンブランの近くのブレティエール(Bretier, 3522m)でのガイド登山の下山中に,日本人S氏が事故に遭われて亡くなったというニュースだった(後日分かったのだが,登山ガイドは無事で,下降中にロープがロックした(ガイドのミス?)のが原因とのこと).既に今日の日本の新聞等で報道されているようである.S氏はバーンホッフの常連で,今週の土曜に来る予定だったそうだ.一方,T氏ら2人のパーティーは,昨夜の雷雪の中,ソルベイ小屋でビバークしてから,夕方に無事に戻ってきた.ソルベイ小屋には彼ら2人しかいなくて,マッターホルンは一晩中,酷い雷と吹雪だったそうだ.ツェルマットから見る限り,夕方に大きな雷鳴が数回聞こえただけで,夜は雷光すら見えなかった.ウィンパーの記録を思い出させる状況にマッターホルンの恐ろしさを目の当たりにした感じだ.ソルベイ小屋から降りるのも一苦労だったとのことで,ツェルマットのガイド登山も今朝はソルベイでみな引き返したそうだ.今もまだマッターホルンは雲の中なので,当分はガイド登山も難しいのではないだろうか.食堂でT氏らのパーティーのS氏に合ったので,事の詳細を伝えた.実家もご近所で,つい先週にはシャモニで会い,ツェルマットでの再会を約束したばかりだったそうで涙された.そんな状況の時に,フランスでガイドを8年行っていたEさんという若い山岳ガイドがバーンホッフに到着され,状況を説明した.事故に遭ったのは,どうやら彼らのガイド仲間ではないようである.また,昨日の午後には,オーストリア隊4名がTaschhorn(4491m)で滑落死したそうだ.ヘリが沢山飛んでいたのはその救助のためだったようである.ツェルマットの町の観光客の陽気さとは裏腹に,山の世界は暗く沈む夕暮れを迎えた.今夜は,ツェルマットのバーで午前1時まで飲んだ.外はしとしと雨が降っていた.

仏シャモニーで日本人が滑落死

 【ジュネーブ3日時事】在ジュネーブ日本総領事館に3日入った連絡によると、フランス東部のシャモニー山系で大阪府堺市在住の貞包嘉男さん(57)が2日、滑落事故で死亡した。領事館によると、貞包さんはガイド1人を伴い、ブレティエール峰(標高3522メートル)から下山途中、遭難したという。 (時事通信)


ウンターロートホルン(Unterrothorn, 3103m)散策(2004/08/05)

昨夜は深夜まで飲んでしまったし,明け方起きると天候も回復していなかったので遅い朝を迎えた.降り続く小雨は止む気配がない.マッターホルンもブライトホルンも,完全に雲の中だ.マッターホルンの西壁を見るために,シューンビュールヒュッテ(Schonbielhutte)まで,往復7.5時間のトレッキングに行くつもりだったが,この天候なのでツェルマットに留まる.ところが午後になってから晴れ間が見え始めたので,14時過ぎにオーバールートホルン(Oberrothorn, 3415m)へ向かった.ツェルマットからスネガー(Sunnegga)まで地下ケーブルカーで上がり,そこからロープウェイでブラウヘルト(Blauherd)経由でウンターロートホルン(Unterrothorn, 3103m)へ上がった.しかし,この時点で既に15時を回っており,最終ロープウェーの時刻(16:50)には,どう頑張っても間に合わないことが判明.更に,オーバールートホルンの上空には,灰色の低い雲が垂れ込めていたので,結局登るのを諦めた.しばし,リンプフィッシュホルンへ続く氷河や,モンテローザ,マッターホルンなどの眺望を楽しんだ後に,徒歩で下りへ向かった.その時,下から壮年組が上がってきて,「徒歩で降りたらブラウヘルトからの最終に間に合わないからロープウェイで降りる」とのことで戻ってきたそうだ.小生は,まあ間に合うだろうと勘ぐって徒歩で下りた.下の駅でまた先ほどのグループと合流したので,最終の地下ケーブルでいっしょにツェルマットへ戻った.ツェルマットの町を再び一周して,顔なじみとなったMさんのいるファンタジーで,マッタホルンの小さなバッジをお土産に幾つか購入した.夕方,一瞬,マッターホルンの山頂が顔を覗かせたので双眼鏡で観察すると,北壁は確かに雪が沢山積もっている感じだが,東稜のリッジの部分は,さほど変わっていないようにも見えた.しかし,ソルベイ小屋のかなり下まで,白くなっていたので,天候が回復して雪が溶けないとマッターホルン登山は難しいだろう.バーンホッフには,新たに日本人が複数やってきた.昨年悪天で泣かされたという社会人の方は,今日から10日ほどいるようだ.小生の到着した時期は,最高の気象条件だったのだと改めて思った.また,バーンホッフで知り合った,O山岳連盟のTさんには,色々な興味深い山話を伺えた.名刺交換をして,来年のツェルマットでの再会を約束してお別れの挨拶をした.海外登山は,日本の山とは大きく異なるので,こういった方々と知り合えただけでも嬉しかった.また,ほぼ毎日通わせて頂いた日本語インフォメーションセンターのスタッフの皆様にも大変お世話になったので,ご挨拶に伺った.もしかしたら,年明けにスキーでツェルマットに来るかもしれないので,その時を楽しみにしたい.ツェルマット最後のよるは,タイ料理を豪華に楽しんだ.


ウンターロートホルンへのロープウェイとツェルマットの町


さらばツェルマット(2004/08/06)

ツェルマットに来た時は一人だった.マッターホルンに登るまでの最初の6日間は,人付き合いをなるべく避け,日本人の友人も作らずに単独で高地トレーニングに励んでいた.そして,マッターホルン登山を切欠にKさんと偶然に知り合い,マッターホルン登頂後の残りの6日間には,多くの(普通でない)日本人の友人が自然とできた.登山を目的に来ている方や,ツェルマットの住人達と知り合えたこの関係は,今後も大切にしていきたいと思う.マッターホルンに登頂し,身近なところでの悲惨な遭難事故を知り,多くの方々と知り合ったこの休暇は,とても密度の濃い12日間であったと思う.ツェルマットの方に見送られながら,10時10分発の登山鉄道に乗り,自分の登った山々を見つめながら,名残惜しく帰路についた.ブライトホルンの山頂の雪帽子は,列車が随分遠くになるまで見えていた.後2年ほどはヨーロッパ(チェコ)に住んでいるので,その間にここにはまた戻ってくるだろう.

帰路は,チューリッヒから格安航空SmartWingでチェコへ戻ったが,またしても機体トラブルで3.5時間遅れの足止めを食らった(往路はチェコからパリへ飛ぶ同航空会社の便が4時間も遅れて,シャルルドゴール空港から深夜のタクシーでパリ市内へ移動したので,結局高くついた).ボーイング737-500の古い機体を使っているSmartWing社は,機体トラブルが多過ぎてチケットは安いのだが全くスマートではない.座席も最悪で,往路はリクライニングが壊れていて,自然と背もたれが後ろに下がってしまうので,離陸から水平飛行になるまでずっと腹筋を使って後ろに体重が掛からないように踏ん張っていたが,帰りの便の座席は小生の列の全ての座席のリクライニングそのものができなくて窮屈だった.トラブルの多い機体なので落ちるのではないかとちょっと心配でもあった(チェコ人達は着陸に成功したときに拍手していたが,その気持ちが理解できた).機内食はチェコ価格で販売しているので,いきなりスイス価格の1/5になったのは嬉しかったが,プラハで友人らと飲む予定が全て狂ってしまい,プラハで飲むどころか,危うく自宅へ帰る終バスさえ逃すところであった.この航空会社は多分もう二度と使わないだろう.


車窓から望むブライトホルンとクライン・マッターホルン

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